テレビ番組で紹介されたグルメ

東京ステーションホテルと東京駅の復原について 「朝ズバッ」から

2012年9月25日のみのもんた氏のTBS系情報番組「朝ズバッ」の「ミノがしません! けさ単!」で東京ステーションホテルと東京駅をで取り上げていました。

いつもの通り、井上貴博アナウンサーの解説です。

さらなる進化を目指し、古き良きものは残す。その上に新しいものを融合させる。

東京駅福源は、JR東京駅を開業当時の姿に戻す工事のことです。

この工事がほぼ終わりました。来月1日にオープンとなります。

昨日から各局各社、東京駅のことは報じていて食傷気味だよと言う方も多いと思います。

あの名作もここから誕生しました。東京ステーションホテルというのは一体何なのでしょうか。

東京駅誕生から98年も経ちました。3度にわたるマル秘計画とは何でしょうか。

東京駅の路線の数は合計で30もあります。

この路線の数が日本一を誇る東京駅が、昨日、報道陣に内部が公開されました。

通称赤れんが駅舎として親しまれてきました。

2007年から復原工事が行われてきました。ようやく来月1日に全面オープンとなります。

昨日報道陣に公開されたのは、駅舎の中、東京ステーションホテルも公開されました。

ここは、客室の数が以前の倍以上と増えました。

来月3日、新装オープンということで、客室には様々なタイプがあります。

ロイヤルスイートは、173平方メートルで80万円を超えます。

一番安い部屋でも3万円を超える、しかし、もうすでにロイヤルスイートは、10月だけで10件を超える予約が入っているそうです。

補填全体、年内の客室の95%がすでに予約済ということで、やっぱり世の中お金かという気もします。

ロイヤルスイートの客室の魅力の一つが、その眺めとも言われています。目の前にズドーンと広がるのが皇居。

行幸通りと言われているところです。

そして復原工事にはこんな想いが込められています。

形が無くなったものを一から作り直す「復元」ではなく、残っている部分を活かしながら原形に戻す「復原」工事なんだということです。

実は、8月には時計も東京駅開業当時の姿に復原されました。

というのも、空襲の後の改修では、洋数字の文字盤を時計に使っていましたが、これを開業当時と同じローマ数字の文字盤へと復原工事をしました。

専門家の鉄道博物館の奥原哲志主幹学芸員によると「ヨーロッパでは古い駅舎を残している駅はたくさんあるが日本では少ない。駅は使っている人々の心象風景そのものなんです」とのことです。

今回の復原は、博物館や美術館というものだけでなく、その域を超えたいんだと言う話もありました。

よみがえる東京駅赤れんが駅舎ということで、タイムスリップしてください。

明治5年、1872年に新橋と横浜間の鉄道が開業しました。

鉄道が開業してから15年以上、ちょっと遅れて明治22年、1889年に東京駅の建設が決定しました。

当時の鉄道網というのは、上野から北に向かう路線と新橋から西に向かう路線はあったのですが、この2つの主要駅をつなぐ駅がありませんでした。

そういうことでコアになる駅として、東京駅建設が決定しました。

まず最初にそのデザインを担当したのが実はドイツ人でした。F・バルツァー氏という方で、日本文化に造詣があり和風のデザインを取り入れました。

和風のデザインが決定したのですが、当時の方からは不評でした。

というのも当時関係者は、東京駅を日本の象徴にしたかったからです。先進国と同じ洋風でなければならなかったのです。

時代背景を思い起こしてみると、時は日露戦争に勝利しました。欧米の列強各国と肩を並べる国になりました。

その象徴として洋風でなければ意味が無いよとなりました。

その後白羽の矢が立ったのが、皆さんご存知の辰野金吾氏でした。この方といえば、日銀本店を設計したことで有名です。

そこで、洋風のデザイン、赤れんが、モダンなデザインのものが出来上がったわけです。

アムステルダム中央駅を模したという話もあります。

完成したのが、大正3年、1914年でした。建設決定から25年もかけてようやく完成しました。

当時は、中央部分は皇室専用出入口でした。というのも、行幸通りもあり、目の前が皇居でした。

一般客はどうしていたのかというと、入り口と出口が決められていて一方通行でした。

鉄道博物館の奥原哲志主幹学芸員は、「当時、開発が進んでいた八重洲側には出入り口はなく、何もなかった丸の内側に皇居に向かって立てられました。」。

帝都の象徴として産まれた駅だったわけです。

この翌年、大正4年、1915年に東京ステーションホテルが開業しました。

文豪ゆかりのホテルということで、江戸川乱歩は怪人二十面相をこの中で明智探偵と変装した怪人二十面相とがやり取りする場面が、このホテルを舞台として描かれています。

松本清張が、「点と線」のトリックをこのホテルで書いたのも有名です。

あと、川端康成とかけっこう有名な人が東京ステーションホテルで書いています。

その後、大正12年、1923年に関東大震災を経験しますが、大きな被害はありませんでした。避難所として使われるほどの耐震性を誇っていました。

しかし、昭和20年、1945年の空襲によりドームと3階部分を焼失してしまいました。

その後、改修されて3階建てが2階建てに、屋根がドーム型だったのが八角形に変わりました。

というのも、約1年半の突貫工事で、当初は応急で直したはずが60年以上も使われました。

その後、昭和33年、1958年から3度の高層ビル化計画がもちあがりましたが、いずれも立ち消えとなりました。

1958年には建築基準法で高さの制限があり断念せざるを得なかったことや再開発や民営化の収益構造改善から高層ビル化が計画されましたがどれも頓挫しました。

その後、平成15年、2003年に重要文化財に指定され、保存していこうじゃないかとなりました。

ここには、市民の保存運動なども大きく貢献したと言われています。

今回の復原工事には、総額500億円かけられていると言われています。

それには、空中権が大きく貢献しています。

東京駅の上に高い建物を立てなくて、そこの容積分を隣のビル、例えば新丸ビルに売りました。

その額が500億円くらいと言われています。その分、東京駅周囲のビルが高く建てられているというわけです。

新丸ビルは、38階建てですが、普通ではあの高さでは建てられませんが、東京駅の空中権を買うことによりあの高さが実現されています。

この復原工事で蘇ったのが、2階建てが3階建てになったこと。八角形であった屋根がドーム型になりました。

実は、ドーム屋根の石瓦は、宮城県石巻市産の石瓦を使っています。東日本大震災で加工中のものが津波で流されましたが、それらを丁寧に拾い集めて加工してここに使っています。

ドーム内部の細部にもこだわっています。創建当時のものに忠実に再現しています。

当時のワシの彫刻、花飾りのレリーフ、干支のレリーフなどの当時の古い写真を基に再現しました。

ワシの彫刻は2メートルを超えるものです。

100年前の姿が蘇り、歴史を堪能できるのはもちろん、免震技術なども導入しています。

これからも多くの思い出を作っていくのではないでしょうか。
 
 

80年以上の歴史がある名門東京ステーションホテルのあゆみとエピソードが鉄道史をからめて綴られています。
東京ステ-ションホテル物語 種村直樹 著

 
 
 
 
 

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